工場を見せてもらうと、機械はよく手入れされている。帳簿を見せてもらうと、借入も過大ではない。取引先も長い付き合いで安定している。それでも、その会社は数年後に畳むことが決まっている。理由はひとつで、続ける人がいない。

印刷業界で起きている廃業の少なくない部分が、この形をしている。経営が行き詰まったのではなく、渡す相手が見つからないまま時間切れになる。そして相談を受けたときには、たいてい打てる手が残っていない。

事業承継と人材採用は、別々の課題として語られることが多い。しかし現場で起きていることを見ていくと、両者は同じ 1 つの問題に行き着く。仕事の中身が、特定の人の頭の中にしかないという問題である。この記事では、まずなぜそうなるのかという構造から始め、印刷業がいま一斉に承継期を迎えている経緯を押さえたうえで、承継と採用を 1 つの作業として進める方法を扱う。費用のかからない順に並べてあるので、上から順に着手できる。

なぜ仕事は、人に貼り付くのか

属人化という言葉は、たいてい否定的に使われる。「属人化を解消しよう」という掛け声とともに、手順書を作れという指示が出る。そして、その手順書はほとんどの場合、完成しない。

理由を考えたい。属人化は、怠慢の結果ではない。むしろ、仕事を早く正確にこなそうとした結果として、必然的に生まれる。

言葉にしにくい知識が、実際に多い

印刷の現場には、経験を通じてしか身につかない判断が大量にある。

  • この紙は、この湿度だと通りにくい
  • この機械は、朝いちばんの数十枚が安定しない
  • この取引先は、納期を 1 日多めに言っておくと後で楽になる
  • この絵柄は、この用紙だと沈むので少し濃いめに振っておく

これらは、書こうと思えば書ける。しかし書き出す前に、本人がそれを「知識」だと認識していない。あまりに当たり前に、体で判断しているからである。手順書を書けと言われても、何を書けばよいのか本人にも分からない。

共有するより、自分でやるほうが速い

もう 1 つの理由が、経済的なものである。誰かに教える時間より、自分でやってしまう時間のほうが短い。忙しい日の合理的な判断は、常に「自分でやる」になる。

そして、これが繰り返されるほど、その人でなければできない領域が広がる。広がるほど忙しくなり、忙しいほど教える時間がなくなる。属人化は、自己強化する構造を持っている。放っておけば必ず進む。

だから、意図的に剥がす作業が要る

ここから結論が出る。属人化は自然には解消しない。剥がす作業を、業務として時間を取って行うしかない。そして、その作業には次の 2 つの性質がある。

  • 緊急ではないが重要である — だから、忙しさを理由に後回しにされ続ける
  • 効果が出るまでに時間がかかる — 今日書いた 5 行が効くのは、半年後や数年後である

この 2 つの性質を持つ作業は、経営者が意識的に時間を確保しないかぎり、絶対に始まらない。ここが、承継と採用の両方に共通する出発点である。

なぜ、いま一斉に承継期を迎えているのか

もう 1 つ、背景として押さえておきたいことがある。印刷業界の承継問題は、個々の会社の事情であると同時に、業界全体の構造でもある。

創業の時期が重なっている

いま国内にある印刷会社の多くは、戦後の需要拡大期に創業している。経済が成長し、企業の販促物も、行政の印刷物も、出版物も増え続けた時期である。設備を入れれば仕事があった時代に、多くの会社が生まれた。

そして、創業から数十年が経った。創業者、あるいはその世代の経営者が、同じ時期に一斉に引退の年齢を迎えている。個々の会社が偶然そうなったのではなく、母集団の年齢構成がそうなっている。

事業環境が、承継の判断を難しくした

もし業界が拡大していれば、承継は自然に進んだかもしれない。実際には、承継期と重なる形で、環境が大きく変わった。

  • 工程の一部が発注側へ移った — 組版やデザインが、専用設備なしにできるようになった
  • 需要の一部が電子に置き換わった — 帳票、案内、出版物の一部
  • 価格の比較が容易になった — ネットでの発注が一般化した

この状況では、後継者候補にとって「継ぐ」という判断が難しくなる。設備と借入を引き受けて、縮んでいると言われる市場に入っていくのか。この問いに、先代が答えを用意できているかどうかが分かれ目になる。

それでも、続ける価値のある会社は多い

公平を期して書いておくと、業界全体の話と個々の会社の話は別である。特定の分野で強い、地域で不可欠な役割を持っている、加工に独自の技術がある。こうした会社は、統計上の業界動向とは無関係に価値がある。

問題は、その価値が外から見えないことである。数字にも、資料にも表れていない。そして、これもまた文書化の問題に帰着する。自社の強みが誰の頭の中にあるかを、一度確かめてみる価値がある。業界の数字の読み方については 印刷業界の市場規模はなぜ調査ごとに違うのか も参照してほしい。

承継で先に手を付けるのは株でも設備でもない

事業承継というと株式の移転や納税の話が先に来るが、それは渡すものが決まってからの手続きである。順番としては、まず「何を渡すのか」をはっきりさせる必要がある。

  • 取引先ごとの仕様・単価・納期の約束が、どこに書かれているか
  • 見積もりの計算根拠(掛け率・加工の単価・値引きの判断)を、社長以外が説明できるか
  • 機械の癖、用紙の手配先、緊急時の外注先を、誰が知っているか
  • 金融機関・リース会社との関係、個人保証の有無を、誰が把握しているか

これらが特定の 1 人の記憶の中にあるうちは、誰に渡しても事業は続かない。逆に言えば、書き出す作業そのものが承継の準備であり、同時に採用の準備にもなる。新しく入った人が読んで動ける状態は、後継者が引き継げる状態と同じである。

社長の頭の中にある業務を、聞かれた質問から書き出して承継と採用の準備に変える手順の図
図1: 属人化の解消は、承継の準備と採用の準備を同時に進める。書き出す作業は 1 回で済む。

属人化の棚卸しは「聞かれた質問」から

手順書を一から書こうとすると、たいてい途中で止まる。前章で見たとおり、本人が何を知識だと思っていないからである。現実的なのは、記録から作る方法である。

  • 1 か月間、社長や熟練者が受けた質問をそのまま書き留める
  • 同じ質問が 2 回来たものだけ、答えを 5 行で書いて共有場所に置く
  • 次に同じ質問が来たら、口で答えずにその場所を見せる

これを続けると、業務の急所から順にドキュメントが埋まっていく。網羅性を目指さないことが、続ける条件である。

なぜ「質問」から始めるとうまくいくのか

理由は 3 つある。

  • 優先順位が自動で決まる — よく聞かれることは、業務上よく必要になることである。網羅的な手順書は、使われない項目から書き始めてしまいがちである
  • 書く量が少ない — 1 件 5 行なら、その場で書ける。「時間ができたら書く」ものは永遠に書かれない
  • 効果がすぐ返ってくる — 次に同じ質問が来たときに答えなくて済むので、書いた人の負担が実際に減る

3 番目がとくに重要である。前章で見たとおり、属人化は「自分でやるほうが速い」という合理性から生まれる。その合理性をひっくり返すには、書いた本人が楽になる必要がある。質問から始める方法は、この条件を満たしている。

置き場所は 1 か所にする

共有フォルダ、社内グループウェア、印刷して置いたバインダー。形式は何でも構わないが、「そこを見れば載っている」場所が 1 つだけあることが条件である。複数に分かれると、どこにあるか分からないという理由で結局人に聞くことになり、元に戻る。

また、間違っていたら直してよいというルールを最初に決める。承認を要求すると更新が止まり、古い情報が残った時点で誰も見なくなる。

1 年続けると何が変わるか

この方法の効果は、すぐには見えない。1 か月では数十件、半年で百件を超えるくらいである。しかし、百件のうちの多くは、その会社の急所そのものである。よく聞かれることを 100 件書き出せば、日常業務の相当部分が説明可能になっている。

そして、この積み上げには副次的な効果がある。後継者や新人が「聞かなくても分かる」状態は、教える側の時間を確実に空ける。空いた時間を、さらに書き出す作業に回せる。ここで初めて、属人化の自己強化とは逆向きの循環が始まる。

文書化しても渡せないものがある

ここで、限界を正直に押さえておきたい。すべてが文書化できるわけではない。そして、渡せないものを見分けることが、計画を現実的にする。

時間でしか渡せないもの

長年の付き合いで成り立っている関係、値引きの裁量、無理な納期を通せる人脈。これらは書いても引き継げない。

取引先への紹介は典型である。書面で引き継げないので、後継者を同席させる期間が要る。この期間は数か月では足りず、季節性のある取引先なら 1 年以上かかる。年に 1 度しか発注のない仕事があれば、その 1 回に同席するまで引き継ぎは終わらない。

信用は、人に付いている

もう 1 つ、金融機関や主要な取引先からの信用は、会社ではなく個人に付いていることがある。先代個人への信用で成立していた条件が、承継後に変わることは実際に起きる。

これも、時間をかけて後継者に移すしかない。だからこそ、先代が元気なうちに、後継者を表に出しておくことが要る。体調を崩してから紹介を始めるのでは間に合わない。

だから、文書化を先に片付ける

渡せないものが時間を必要とするなら、渡せるものは早く片付けて、引き継ぎの時間を渡せないものに集中させるしかない。前章の棚卸しが効くのはここである。

書けば渡せるものと、時間でしか渡せないものを左右に仕分けた図
図2: 先に仕分けると、着手すべき時期が逆算できる。左を早く片付け、右に時間を集中させる。

時間でしか解決しない項目が何かを先に把握しておくことが、承継の計画を現実的にする。逆に、ここを見誤ると「3 年あれば足りる」と思っていたものが、実は 5 年必要だったということになる。

採用は「職種の説明」から見直す

印刷業の求人が埋まりにくい理由の 1 つは、仕事の内容が業界の外から見えないことである。「印刷オペレーター」「DTP」と書いても、応募する側には日々何をするのかが伝わらない。

  • 1 日の流れを時間帯で書く(何時に来て、何を、誰と)
  • 使う道具とソフトを具体名で書く
  • 未経験から何か月でどこまでできるようになるのか、育成の道筋を書く
  • 体力面・シフト・繁忙期を隠さずに書く。入社後の早期離職のほうが損失は大きい

とくに製造業の経験がない層に届けるには、「ものづくりの現場である」ことと「デジタルの仕事でもある」ことの両方を示すのが有効である。印刷は工程管理とデータ処理の仕事でもある。

書き直しの例

抽象的な説明を具体に置き換えるだけで、伝わり方は大きく変わる。

よくある書き方書き直した例
印刷オペレーター募集。未経験可。オフセット印刷機(4 色機)の操作。朝は前日の続きの色合わせから始まり、日中は 3〜5 件の刷り替え。用紙の交換と検査が中心で、機械の前に立つ時間は 1 日 5〜6 時間ほど。
DTP オペレーター。経験者優遇。支給データの検査と修正、面付け、校正用 PDF の作成を行う。デザインを一から作る仕事ではなく、印刷できる状態に整える仕事である。
アットホームな職場です。社員 18 名。製造 9 名・営業 4 名・制作 3 名・事務 2 名。20 代から 60 代まで在籍。

3 つ目のように、雰囲気を表す言葉は数字に置き換えられる。「アットホーム」は書き手にしか意味が分からないが、人数構成は誰が読んでも同じ情報になる。

未経験者に何を約束できるかを書く

印刷業の求人で最も足りないのが、育成の道筋である。次の 3 点を具体的に書けると、応募のハードルが下がる。

  • 最初の 3 か月で何を任されるのか(見学だけなのか、補助に入るのか)
  • 1 年後にどこまでできるようになるのか(実際に育った人の例で書く)
  • 資格・講習の支援があるか(フォークリフト、印刷技能士、危険物取扱者など)

これらは事実を書くだけなので、費用はかからない。すでに育った社員に「入社してから何ができるようになったか」を聞けば、そのまま材料になる。

棚卸しが、そのまま求人票になる

ここで、前章までの作業がつながる。質問から書き出したドキュメントは、「この会社では何をするのか」の具体そのものである。求人票の職務内容は、そこから抜き出して書ける。

さらに、育成の道筋も同じ材料から作れる。書き出した項目を「入社 3 か月で分かること」「1 年で分かること」に並べ替えるだけで、育成計画にも、求人票の記述にも、評価の基準にもなる。1 回の作業が 3 か所に効く。

採用の前に、辞めない条件を確認する

採用が難しい時期ほど、いまいる人が辞めないほうが効く。作業環境、繁忙期の偏り、評価の説明、資格取得の支援。どれも大きな投資ではないが、放置されていることが少なくない。

1 人採用して定着させるまでにかかる費用(求人広告費、面接の時間、教育にかかる先輩社員の時間)を一度計算してみたい。その金額を、いま在籍している人の環境改善に使ったほうが効果が大きいという結論になることは珍しくない。

辞める理由は、辞めるときには聞けない

退職の申し出があった時点で、本当の理由が語られることはほとんどない。「一身上の都合」で終わる。したがって、辞める理由は在籍中にしか分からない。

大がかりな調査は要らない。年に 1 度、10 分でよいので 1 対 1 で話す時間を作り、次の 3 つを聞くだけでも違う。

  • いまの仕事で、いちばん時間を取られていて、無駄だと思うこと
  • この 1 年でできるようになったこと
  • これからやってみたいこと

1 つ目は業務改善の材料に、2 つ目は評価と求人票の材料に、3 つ目は配置と育成の材料になる。3 つとも、聞かなければ絶対に出てこない情報である。

そして、聞いたら何か 1 つは変える。聞くだけで何も変わらなければ、翌年から本音は出てこなくなる。

引き継ぎの実務 — 何を、どの順で渡すか

後継者が決まったあとの引き継ぎにも、順番がある。よくある失敗は、社長業の全体をいきなり渡そうとして、後継者が判断できずに止まることである。判断の難しさが低いものから順に渡していくと、詰まりにくい。

順番渡すもの目安
1日常業務(工程の割り振り、外注への発注)手順が決まっており、間違えても取り返しがつく
2見積もりと価格の決定根拠が文書になっていれば渡せる。値引きの裁量だけ残す
3取引先との関係同席の期間が要る。季節性があるなら 1 年以上
4採用と人事の判断社内の納得が必要。先に肩書きを移しておく
5金融機関・投資の判断個人保証の切り替えを含むため、時間がかかる

この表で大事なのは、1 と 2 は文書化さえできていれば早く渡せるということである。前章の棚卸しが効くのはここで、書き出しが進んでいる会社ほど引き継ぎの前半が短く済む。

「社長が現場に残る」ことの功罪

承継後も先代が現場に残るのは、印刷業では珍しくない。技術があり、機械を触れるからである。ただし、これには副作用がある。

  • 取引先や社員が、判断を先代に聞きに行く状態が続く
  • 後継者が失敗する機会を失い、判断の経験が積まれない
  • 先代が体調を崩した瞬間に、渡していなかったことが一気に露出する

残るなら、「どの領域は完全に手を出さないか」を先に決めて、社内に明示することである。技術指導には残るが、価格と人事には関わらない、といった線引きが具体的であるほど機能する。

後継者の側から見ると、何が要るのか

ここまでは渡す側の視点で書いてきた。しかし、承継が成立するには受け取る側の納得が要る。後継者の立場から見て何が必要かを、渡す側が理解しているかどうかで、話の進み方はまったく違う。

いちばん知りたいのは「いまどうなっているか」

継ぐかどうかを判断する立場になったとき、最初に知りたいのは会社の現状である。ところが、この情報がまとまっていないことが多い。

  • 取引先ごとの売上と、利益が出ているかどうか
  • 設備の状態と、更新に要する費用の見通し
  • 借入の残高、返済の予定、個人保証の範囲
  • 従業員の年齢構成と、数年以内に退職しそうな人

これらが分からないまま「継いでくれ」と言われても、判断のしようがない。逆に、この 4 つが整理されて出てくる会社は、それだけで承継の話が前に進む。

「変えてよい」と言われているか

もう 1 つ、後継者にとって大きいのが裁量の範囲である。いまのやり方を変えてよいのか、守るべきなのか。ここが曖昧なまま引き継ぐと、判断のたびに先代の顔色を見ることになる。

先代にとっては、自分が作ってきたものを否定されるように感じる場面もある。しかし、事業環境が変わっている以上、同じやり方を続けることが安全とは限らない。「何は守ってほしいか」と「何は変えてよいか」を、言葉にして渡しておきたい。

親族でない後継者の場合

社内の従業員が継ぐ場合、追加で 2 つの論点が出る。株式の取得資金と、個人保証である。どちらも、本人の意思だけでは解決しない。

これらには公的な支援の枠組みや、金融機関の対応の選択肢がある。ただし内容は制度改正で変わるため、必ず最新の情報を専門家と金融機関に確認してほしい。この記事で言えるのは、「資金と保証は、本人が悩む前に会社側から論点として出す」ということまでである。出さないまま話を進めると、本人が黙って辞退することになる。

外部の制度と相手を早めに知っておく

社内だけで抱えず、使える窓口は先に把握しておきたい。

  • 事業承継・引継ぎ支援センター — 各都道府県に設置された公的な相談窓口。親族内承継も第三者への引継ぎも相談できる
  • M&A・事業譲渡 — 後継者がいない場合の選択肢。設備と顧客を残せる形として業界内でも増えている
  • 各種の補助金・助成 — 設備投資、事業承継、人材育成の枠がある。公募期間が限られるため、必要になってから探すと間に合わない
  • 工業組合・業界団体 — 同業の事例が集まる場所。近い規模の会社がどうしたかは、一般論より参考になる
  • 取引金融機関 — 承継の相談窓口を持っていることが多い。借入と個人保証の扱いは早い段階で相談しておく

税務・法務の具体的な進め方は、必ず顧問の税理士・弁護士に確認してほしい。ここで書けるのは、相談を始めるタイミングを遅らせないことの重要性までである。

第三者への譲渡を「失敗」と考えない

親族や社内に後継者がいない場合、事業譲渡が選択肢になる。この形を敗北のように受け止める経営者は少なくないが、設備・技術・取引先・従業員の雇用が残るという意味では、廃業とはまったく違う結果である。

ただし、譲渡先が見つかるかどうかは会社の状態に左右される。ここでも効くのが文書化である。業務が特定の人に貼り付いている会社は、譲渡先から見ると引き継げないリスクの塊に見える。棚卸しは、どの出口を選ぶ場合でも先にやっておく価値がある。

どこから人を採るか

求人票を書き直したとして、次はどこに出すかである。ここでも、印刷業には固有の事情がある。

「印刷会社を探している人」は、そもそも少ない

まず前提として、印刷会社で働きたいと思って探している人は多くない。業界の外から見ると、何をしている会社なのかが分かりにくいからである。

したがって、待っていても応募は来にくい。「印刷会社を探している人」ではなく、「この仕事なら向いているかもしれない人」に届けるという発想の転換が要る。具体的には、次のような層が候補になる。

刺さりやすい点
他業種の製造現場の経験者機械を扱う仕事であること、工程管理の考え方が近いこと
細かい作業が得意な人検査・修正・仕上がりの確認という工程があること
パソコンでの作業を仕事にしたい人制作・データ処理はデジタルの仕事であること
地元で腰を据えて働きたい人転勤がないこと、地域の仕事に関わること

この整理をすると、求人票に書くべきことが変わる。「印刷経験者優遇」と書くより、「他業種の製造現場の経験が活きます」と書いたほうが、届く相手が広い。

実物が使える

もう 1 つ、印刷会社には他業種にない武器がある。自社で作ったものを見せられる。採用の場面でも、これは効く。

  • 会社案内そのものを、自社の技術を見せる媒体にする
  • 面接に来た人に、実際に手掛けた印刷物を見てもらう
  • 工場見学を組み込み、機械が動いているところを見せる

「何をしている会社か分からない」という最大の障壁を、現物と現場で一度に解消できる。この強みを使わない手はない。

いま働いている人が、いちばんの情報源

最後に、いちばん確実な方法を挙げる。いま在籍している社員に、なぜこの会社を選んだのかを聞く。そこに書かれている理由が、次に応募してくる人にも刺さる。

そして、その言葉をそのまま求人票に使う。採用担当が考えた文章より、実際に選んだ人の言葉のほうが具体的で、嘘がない。費用はかからず、今日からできる。

人が育つ職場の条件

採用できても、育たなければ同じことの繰り返しになる。印刷の現場で人が育つかどうかは、次の 3 点でだいたい決まる。

1. 教える人が決まっているか

「手が空いている人が教える」は、実質的に誰も教えないのと同じである。新人 1 人につき担当を 1 人決め、その人の作業量をあらかじめ減らしておく必要がある。教育の時間を業務時間として認めていない会社では、教える側が自分の仕事を優先するので当然の結果になる。

2. 失敗できる仕事があるか

印刷は、失敗が用紙代と機械の時間に直結する。そのため新人には見学ばかりさせがちだが、それでは判断が身につかない。刷り直しても損害の小さい仕事を、意図的に新人に回す設計が要る。社内用の印刷物、予備の多い定番仕事などが候補になる。

3. 何ができれば一人前かが書かれているか

到達点が示されていないと、本人も教える側も進み具合が分からない。工程ごとに「一人でできる作業」を段階的に並べた表を作り、できるようになったら日付を入れていくだけで十分である。この表は、そのまま評価の根拠にも、求人票の「1 年後にできること」の記述にもなる。

3 つとも、費用はほとんどかからない。かかるのは、教える側の時間を確保するという判断だけである。

ベテランの技能を、どう次に渡すか

そしてもう 1 つ、印刷業に固有の難しさがある。熟練者の技能が、機械の世代交代とともに使えなくなることがある。

手で色を追い込む技術、機械の音で異常を聞き分ける勘。これらは価値のある技能だが、機械が自動化されれば発揮する場面が減る。ベテランの側から見れば、長年かけて身につけたものが、渡す前に不要になっていくという経験になる。

ここで大事なのは、技能そのものではなくその技能の背後にある判断の理屈を渡すことである。「なぜその音が異常なのか」「なぜその色を濃いめに振るのか」。理屈は機械が変わっても残る。手順だけを渡そうとすると、機械が変わった瞬間に価値を失う。

これは、この記事の最初に述べた「言葉にしにくい知識」の話に戻ってくる。ベテランに聞くべきは手順ではなく理由である。そして、理由を聞き出す最も自然な方法が、質問を書き留めるという作業なのである。

いつから始めるか

承継の準備には数年かかる。後継者が決まっていても、取引先との関係の引き継ぎ、金融機関との調整、個人保証の扱いなど、時間でしか解決しない項目が並ぶ。「まだ元気だから」という時期にしか着手できないのが、この課題の厄介なところである。

承継の5年前から当日までにやることを並べた時間軸の図
図3: 時間でしか解決しない項目が並ぶため、逆算すると着手時期は思ったより早い。

後継者が決まっていない場合にできること

「渡す相手が決まっていないので動けない」という状態でも、次の 3 つは相手に関係なく進む。

  • 業務の棚卸しと文書化 — 誰に渡すにしても必要になる
  • 決算書の整理 — 個人資産と会社資産の区分、名義の実態と登記の一致など
  • 相談窓口への接触 — 事業承継・引継ぎ支援センターは、相手が決まっていない段階でも相談できる

この 3 つを先に進めておくと、後継者が現れたときに話が速く進む。逆に、相手が決まってから着手すると、そこから数年かかる。

今日できることは、質問を 1 つ書き留めること

大きな計画から入ろうとすると、たいてい動き出せない。今日できるのは、今日聞かれた質問を 1 つ書き留めることだけである。それでも、何もしていない状態とは決定的に違う。

1 日 1 件でも、1 年で 200 件を超える。200 件書き出された会社と、0 件の会社では、渡せる状態がまるで違う。

まとめ — 費用をかけずに始められる 5 つのこと

事業承継も採用も、根は「仕事が人に貼り付いている」ことにある。そして属人化は、怠慢ではなく構造から生まれるので、意図的に剥がす作業が要る。

  • 今日から、聞かれた質問を書き留める。2 回来たものだけ 5 行で答えを書き、1 か所に置く
  • 「時間でしか渡せないもの」を先に洗い出す。そこから逆算すると、着手時期が決まる
  • 求人票の抽象的な言葉を、数字と具体に置き換える。棚卸しの結果がそのまま材料になる
  • 新人に失敗できる仕事を意図的に回す。見学だけでは判断が育たない
  • 相談窓口の連絡先を、必要になる前に控えておく。公募型の制度は、必要になってからでは間に合わない

そして、承継や税務・法務の具体的な進め方については、必ず専門家に相談してほしい。この記事で扱えるのは、専門家に相談する前に自社で片付けておける部分までである。

業界の動きは 経営・業界動向 でまとめている。