受注の内容が、いま社内の何か所に書かれているか数えたことがあるだろうか。顧客からのメール、営業の手帳、見積書、受注台帳の表計算、工場に回す指示書、進捗を貼り出したホワイトボード、請求のための別の表計算。1 件の仕事が、6 か所にも 7 か所にも書き写されている。
そして、そのうちのどれかが必ず古い。部数が変わった、納期が延びた、担当者が替わった。書き換えられるのは 1 か所か 2 か所で、残りは古い情報のまま残る。誰かが「本当はどれが正しいのか」を確認しに行く時間が、毎日どこかで発生している。
印刷会社の DX で実際に効くのは、新しい機械でも、話題の技術でもない。この「書き写し」をなくすことである。この記事では、まず情報がなぜ分断されるのかという構造から始め、印刷業がすでに 3 度経験してきた自動化の経緯を振り返る。そのうえで、MIS と Web2Print という 2 つの柱を、着手すべき順番とともに整理する。結論を先に書けば、順番は「計測 → 二重入力の解消 → 定型物の自動化 → 検査の自動化」である。この順番を守らないと、投資しても効果が出ない。
なぜ同じことを何度も書き写すことになるのか
まず、この状態がなぜ生まれるのかを考えたい。誰も好きで転記しているわけではない。構造がそうさせている。
情報は、発生した場所から動かない
受注の情報は、営業と顧客のあいだで発生する。しかし、その情報を必要とするのは、工場であり、購買であり、経理である。情報が生まれた場所と、必要とされる場所が違う。
この距離を埋める方法は、原理的には 2 つしかない。情報を写して運ぶか、同じものを全員が見に行くかである。紙とメールで仕事をしていれば、必然的に前者になる。写して運ぶしかないので、写す回数だけ手間が増える。
写すたびに、情報は劣化する
そして、写すという行為には必ず誤りが混じる。桁を間違える、単位を落とす、備考欄の但し書きが抜ける。1 回あたりの誤りの確率が低くても、写す回数が多ければ、どこかで必ず起きる。
さらに厄介なのが、更新である。1 か所を直しても、写された先は直らない。時間が経つほど、7 か所の内容は互いに食い違っていく。この状態では、誰も自社のデータを信用できなくなる。
だから「唯一の置き場所」を決める
ここから、DX と呼ばれるものの中身が見えてくる。情報の正しい置き場所を 1 つに決め、他はすべてそれを見に行く形にする。これだけである。
システムを入れるのは、この形を実現する手段にすぎない。逆に言えば、置き場所を 1 つに決めないままシステムを入れても、置き場所が 1 つ増えるだけである。「システムを入れたのに転記が減らない」という状態は、ここで説明できる。
印刷業は、すでに 3 度の自動化を経験している
DX という言葉は新しいが、印刷業が工程の自動化を経験するのはこれが初めてではない。むしろ、製造業の中でも極めて激しく自動化を経験してきた業種である。過去の経験から学べることは多い。
1 度目 — 活字から写植へ
金属活字を 1 本ずつ拾って組んでいた作業が、写真を使った文字組みに置き換わった。職人が手で組んでいた工程が、機械の操作に変わった。組版の速度は上がり、文字サイズの自由度も増した。
2 度目 — 写植から DTP へ
そして、文字組みとレイアウトがコンピュータの上に移った。ここで起きたのは、単なる効率化ではない。作業の担い手が、印刷会社の外に出たということである。
それまで、文字を組めるのは専門の設備と技能を持つ人だけだった。DTP は、その能力を誰の机の上にも置いた。結果として、印刷会社が独占していた工程の一部が、発注側でもできるようになった。
3 度目 — フィルムから直接製版へ
版を作る工程からフィルムが消え、データから直接刷版を出力するようになった。工程が短くなり、フィルムに起因する劣化やずれがなくなった。同時に、途中で人の目が入る機会も減った。
3 度の経験が教えること
この 3 度に共通する構造がある。
| 起きたこと | 結果 |
|---|---|
| 作業が速く、安くなった | その作業単体では稼げなくなった |
| 専門の技能が要らなくなった | 参入が容易になり、競争が増えた |
| 工程の一部が発注側へ移った | 印刷会社の役割の範囲が変わった |
| 人が確認する機会が減った | 入口での品質管理の重要性が上がった |
つまり、自動化されたのは作業であって、仕事そのものではなかった。組版という作業の価値は下がったが、「読みやすく、間違いのない印刷物を作る」という仕事は残った。むしろ、作業から解放されたぶん、そちらへ時間を移せた会社が生き残っている。
いま起きている変化も、同じ形で読める。転記や進捗確認という作業がなくなったあと、その時間を何に使うのか。この問いに答えを用意していない自動化は、単なる人減らしにしかならない。
最初にやるのは導入ではなく計測
ここから、具体的な進め方に入る。システムを入れても成果が出ない典型は、どこで時間が失われているかを知らないまま導入するケースである。まず 2 週間だけ、次の記録を取ってみたい。
- 1 件の見積もりに、問い合わせから提示まで何時間かかっているか
- 同じ内容を何回、別の場所(メール・紙・表計算・基幹)に書き写しているか
- 差し戻し・刷り直しが月に何件あり、原因は何か
- 受注の何割が「毎回ほぼ同じ内容の定型物」か
この 4 つのうち、最後の 1 つが多ければ Web2Print、2 つ目と 3 つ目が多ければ MIS から始めるのが定石である。順番を決めるための材料であって、完璧な分析は要らない。
記録は簡単な形で取る
専用のツールは不要である。紙の記録用紙をデスクに置き、次の 3 列だけ埋めてもらえば足りる。
| 列 | 書く内容 |
|---|---|
| いつ・どの案件 | 日付と案件名(社内の呼び方で構わない) |
| 何をしていたか | 「見積作成」「受注入力」「進捗の確認」など、決めた語彙から選ぶ |
| かかった時間 | 15 分単位の概算でよい |
正確さより続くことを優先する。2 週間ぶん集まれば、時間の消えている場所は驚くほどはっきり出る。多くの会社で上位に来るのは「見積もりの計算と作り直し」「受注内容の転記」「進捗を人に聞く時間」の 3 つである。
記録を取ること自体に副次的な効果がある
記録を見せると、現場の説明が変わることがある。「忙しい」という言葉が「見積もりの作り直しに週 6 時間使っている」という具体に変わると、社内で議論ができるようになる。投資の稟議を通すときにも、この数字がそのまま根拠になる。
もう 1 つ、記録には副作用がある。記録を取っているあいだに、記録している本人が無駄に気づくことである。「これ、3 回目だな」と書きながら思う。システムを入れる前に改善が始まることは珍しくない。
記録をどう読むか
2 週間ぶんの記録が集まったら、次の 3 つの軸で見る。
- 合計時間の大きい順 — どこに時間が集まっているか。上位 3 つで全体のかなりを占めることが多い
- 1 回あたりは短いが、回数が多いもの — 見落とされやすいが、積み上げると大きい。転記や確認はここに入る
- 特定の 1 人に集まっているもの — その人が休むと止まる業務。承継と採用の観点でも重要
とくに 2 番目が要注意である。1 回 5 分の作業でも、1 日 10 回あれば年間で 200 時間を超える。「たいした手間ではない」と本人が思っている作業ほど、この形をしている。
記録を取ること自体を目的にしない
逆に、注意しておきたいこともある。記録は2 週間で切り上げる。続けるほど精度は上がるが、記録という作業そのものが負担になる。目的は完璧な分析ではなく、着手の順番を決めることである。
そして、記録を取ったら必ず結果を現場に返す。集めるだけで何も起きなければ、次に協力してもらえなくなる。
MIS が効くのは「二重入力」と「原価が見えない」問題
MIS(印刷業向けの生産管理システム)は、見積もり・受注・工程・原価・請求を 1 本につなぐ仕組みである。先に述べた「唯一の置き場所」を作る道具だと考えればよい。効果が出やすいのは次の状態にある会社である。
- 見積書を作った内容を、受注時にもう一度別の台帳に入力している
- 工程の進み具合が、担当者に聞かないと分からない
- 案件ごとの実際の原価が、締めた後にしか分からない(あるいは分からない)
逆に、ここを飛ばして先に自動化だけを入れても、元になる情報がばらばらのままなので効果が出ない。工程データを機械とやり取りする規格も、受注情報が 1 か所にまとまっていて初めて意味を持つ。
「原価が見えない」がなぜ致命的か
案件ごとの原価が締めた後にしか分からない状態では、次の 3 つの判断ができない。
- どの仕事で利益が出ているか — 売上の大きい取引先が、実は工数を食っているだけということがある
- 見積もりの精度が上がらない — 実績と突き合わせないので、掛け率が経験則のまま更新されない
- 断る判断ができない — 赤字の案件を、忙しさの実感だけで受け続けてしまう
MIS を入れる目的は「システム化」ではなく、この 3 つの判断ができる状態を作ることである。導入の成否も、この 3 つで測る。「入力が増えて現場が疲れた」で終わる導入は、目的が置き換わっている。
選定でつまずかないために
- 自社の見積もりロジック(加工・用紙・掛け率)を、そのまま入れられるか
- 既存の会計・販売管理とどの粒度でデータ連携できるか
- 入力するのは誰か。営業が入れないと運用が止まる設計になっていないか
- 導入後に自社でマスタを直せるか(用紙・加工・単価を変えるたびにベンダーへ依頼が必要だと、運用が止まる)
- データを外に取り出せるか(将来の乗り換えと、分析の自由度に効く)
とくに 3 番目は、導入が失敗する原因の上位である。入力の負担が営業 1 人に集まる設計にすると、忙しい時期に入力が止まり、止まった瞬間から全体が信用できないデータになる。誰がいつ入力するのかを、導入前に業務の流れとして決めておく必要がある。
導入は段階的に
全機能を一度に使い始めると、現場は覚えきれない。次の順で 1 つずつ立ち上げると定着しやすい。
- 第 1 段階 — 見積もりだけを MIS で作る(受注は従来どおり)
- 第 2 段階 — 見積もりから受注に引き継ぐ(ここで二重入力が消える)
- 第 3 段階 — 工程の実績を入力し、進捗が見えるようにする
- 第 4 段階 — 原価を集計し、見積もりの掛け率を実績で更新する
第 2 段階まで来た時点で、記録で見えていた転記の時間はほぼ消える。ここまでの効果を確認してから第 3 段階へ進むほうが、社内の協力を得やすい。
Web2Print が効くのは「定型物の往復」
Web2Print は、注文・データ入稿・校正・承認をブラウザで完結させる仕組みである。向くのは内容がほぼ決まっていて、繰り返し発注される印刷物である。
- 名刺、封筒、伝票などのテンプレート印刷物
- 支店・店舗ごとに一部だけ差し替えるチラシや POP
- 本社の承認が要る、多拠点からの発注
この領域は、電話とメールでのやり取り 1 件あたりの手間が大きいわりに単価が低く、人が介在するほど利益が薄くなるのが特徴である。テンプレートと承認フローをウェブに載せるだけで、担当者の時間が直接空く。
名刺 1 件の往復を数えてみる
電話・メールで受けた名刺 1 件を納品するまでに、何回のやり取りが発生しているかを数えてみたい。多くの場合、次のようになる。
| 工程 | やり取り |
|---|---|
| 依頼受付 | メールで氏名・役職・部署・連絡先を受け取る |
| データ作成 | テンプレートに流し込む(表記ゆれの確認で 1 往復) |
| 校正 | PDF を送る → 修正 → 再送(平均 1〜2 往復) |
| 承認 | 本人の確認と、上長の確認が別々に必要なことがある |
| 発注確定 | 部数・納期・請求先の確認 |
1 件あたり 5〜8 通のメールが動く。月に 30 件あれば、それだけで 200 通近い往復である。これがすべてテンプレート入力と承認ボタンに置き換わるのが Web2Print の効果であって、印刷そのものの効率化ではない。
ここで大事なのは、減るのは印刷会社側の手間だけではないという点である。発注側の担当者も、同じ回数のメールを書いている。テンプレートで完結すれば、相手の手間も同じだけ減る。提案するときは、自社の効率化ではなく相手の手間として説明したほうが通りやすい。
不特定多数向けより、顧客ごとの専用サイト
毎回デザインが変わる案件、仕様の相談が価値になる案件を無理にウェブへ載せても効果は出ない。顧客ごとの専用サイトとして提供し、取引を固定化する使い方のほうが、不特定多数向けの通販より現実的な場合が多い。
専用サイト型には、価格競争に巻き込まれにくいという利点もある。発注側から見れば、そこにテンプレートと過去の発注履歴が溜まっているので、単価が少し安い他社に切り替える手間のほうが大きくなる。1 社ぶんのサイトを作る手間は、その取引が続く年数で割って考えるべき投資である。
導入で見落とされやすい点
- 権限と承認の設計 — 誰が発注でき、誰の承認が要るか。ここが実態と合っていないと運用されない
- 予算管理 — 部署ごとの上限や実績の集計を求められることがある
- テンプレートの保守 — ロゴ変更・組織改編のたびに更新が要る。誰が直すかを決めておく
- 納品先の管理 — 多拠点への直送は、住所マスタの整備が前提になる
最後の 1 つは軽視されやすいが、実際に運用を止める原因になる。住所と担当者の情報は、相手側の組織変更で常に古くなっていく。誰がいつ更新するのかを決めていないと、誤配送が増え、結局こちらで電話をかけて確認することになる。
ワークフローと検版の自動化
受注側が整理できたら、制作・印刷側である。ここは投資額の割に効果が読みやすい領域である。
- プリフライトの自動化 — 塗り足し・解像度・色空間・フォントの検査を入稿の入口に置く。人が見つける前に弾ける
- 面付けの自動化 — 定型サイズは条件から自動で組む
- データ検版 — 修正前後の PDF を機械で比較する。校正の見落としは、目視で防ぐより比較で防ぐほうが確実である
この 3 つに共通するのは、「人が見落とすもの」を機械が確実に拾うという性質である。逆に、内容が正しいか(価格の桁、日付、担当者名)は機械には判断できない。機械側の検査を先に済ませて、人の時間を内容の確認に回す、という配分にするのが本来の狙いである。詳しくは 入稿データの基本 でも扱っている。
効果の測り方
自動化の効果は「速くなった気がする」で終わりがちである。次の 2 つを導入前後で比べたい。
- 入稿から刷版までの平均時間(案件ごとの実績から)
- 差し戻し・刷り直しの件数と、その原因の内訳
とくに 2 番目は、最初の計測で取っているはずの数字である。同じ指標で前後を比べられることが、最初に記録を取っておく理由でもある。
DX では解決しないもの
ここまで効果を書いてきたが、限界も正直に押さえておきたい。システムを入れても解決しない問題がある。そこに投資すると、必ず失望する。
決めていないことは、自動化できない
いちばん多いのがこれである。見積もりの掛け率が担当者ごとに違う、納期の決め方が案件ごとに違う、承認のルールが暗黙のまま。ルールが決まっていない業務は、システムに載せられない。
導入の過程で「ところで、これはどう決めているんですか」という問いが繰り返し出てくるのは、このためである。その問いに答える作業こそが本体で、システムはその結果を実装する箱にすぎない。導入プロジェクトが長引く原因の多くは、技術ではなくここにある。
人が判断すべきことは残る
無理な納期を受けるかどうか、値引きに応じるかどうか、トラブルにどう対処するか。これらは情報が揃っていても、最後は人が決める。システムができるのは、判断の材料を揃えるところまでである。
逆に言えば、材料が揃っていない状態で判断していることが、いまはあまりに多い。原価が見えないまま値引きし、工程の空きが見えないまま納期を約束する。ここを埋めるだけでも、判断の質は変わる。
使わない人がいれば、効果は出ない
そして、最も現実的な限界がこれである。1 人が入力しなければ、そのデータは信用できなくなる。信用できないデータは見られなくなり、見られないシステムは使われなくなる。
この連鎖を止めるには、入力を「増えた仕事」にしないことが要る。入力した人が、その入力によって楽になる設計になっているか。見積もりを入れれば受注入力が要らなくなる、実績を入れれば日報を書かなくてよくなる。この関係が作れていれば、入力は続く。
AI をどこに置くか
DX の話題に AI が入らないことはなくなった。ただし、期待の掛け方を間違えると失望する。ここまでの整理に沿って、置き場所を考えたい。
効きやすいのは「下書きを作る」仕事
現時点で実務に乗せやすいのは、人が最終確認することを前提に、たたき台を作らせる使い方である。
- 問い合わせメールへの返信の下書き
- 提案書や社内資料の骨子
- 過去の案件記録からの要約
- 原稿の誤字脱字や表記ゆれの洗い出し
これらに共通するのは、間違っていても人が気づけるという性質である。出てきたものを人が読んで直す前提なら、多少の誤りは実害にならない。
効きにくいのは「正確さが要る」仕事
逆に、次のような用途は現時点では慎重に考えたい。
- 見積金額の算出 — 数字は根拠が必要で、根拠を説明できないものは使えない
- 校正の最終確認 — 見落としがあっても気づけない。比較による検版のほうが確実である
- 顧客への回答をそのまま送る — 誤った情報を送れば、責任は自社に来る
ここでも、原則は同じである。機械が得意なのは「基準がはっきりしていて、大量にある」仕事。人が得意なのは「基準が曖昧で、責任が伴う」仕事。この分担は、AI が入っても変わらない。
順番としては後ろに置く
そして、この記事全体の主張に戻る。情報が 7 か所に散らばっている状態で AI を入れても、参照する材料が揃っていない。過去の案件から見積もりの傾向を出したくても、その案件記録がどこにも整理されていなければ何もできない。
AI の活用は、情報が 1 か所にまとまってから効く。順番を飛ばさないほうがよい、という結論はここでも同じである。
始める順番
予算の大小より、手戻りの多い工程から順に手を付けるのが失敗しない進め方である。
- 第 1 段階 — 記録を取り、どこで時間が消えているかを特定する
- 第 2 段階 — 二重入力をなくす(MIS、あるいは既存システムの整理でも足りることがある)
- 第 3 段階 — 定型物を Web2Print に載せ、常連客との往復を減らす
- 第 4 段階 — 入稿検査・面付け・検版を自動化する
「システムを入れない」という選択肢も検討する
第 2 段階の二重入力は、必ずしも MIS でなくても解消できることがある。見積書と受注台帳が別々の表計算になっているだけなら、1 つのファイルに統合し、入力欄を共有するだけで転記は消える。数十万円の投資で済む話が、数百万円の導入案件になっていないかを、一度立ち止まって考えたい。
判断の目安は、案件数と関わる人数である。月の受注が数十件で、関わるのが数名なら、既存ツールの整理で足りることが多い。件数が三桁に乗り、部署をまたいで人が関わるようになると、専用のシステムでないと維持できなくなる。
データを持つことが、それ自体の価値になる
ここまでは、効率化としての DX を書いてきた。もう 1 つ、見落とされやすい効果がある。整理された情報そのものが、事業の価値になるということである。
過去の仕事が、提案の材料になる
案件の情報が 1 か所に揃っていると、次のようなことが答えられるようになる。
- この取引先には、過去 3 年で何を、いくらで、何件納めたか
- この時期に、この業種からどんな仕事が来る傾向があるか
- この仕様の仕事は、実際に何日かかったか
これらは、営業がそのまま提案に使える材料である。「昨年と同じ時期に、こういう案件をいただいています」と切り出せるかどうかで、訪問の意味が変わる。記憶に頼っていると、担当が替わった瞬間にゼロに戻る。
承継と採用にも効く
そして、情報が整理されているかどうかは、事業を渡すときにも効く。業務が特定の人の頭の中にしかない会社は、後継者にも、新しく入った人にも渡せない。
この点は 印刷会社の事業承継と人材採用 で詳しく扱っているが、根は同じ問題である。DX と承継対策は、別々の投資ではない。同じ作業が両方に効く。
環境データの要求にも効く
もう 1 つ、近年増えているのが取引先からの環境データの要求である。案件ごとの用紙の使用量、機械の稼働時間、輸送。これらが案件単位で残っていれば、要求されたときに答えられる。
残っていなければ、そのつど推計するしかない。整理された情報は、いま予想していない要求に対しても効く。これが、情報を持つことの本当の価値である。詳しくは 印刷会社の環境対応をどう進めるか を参照してほしい。
投資の判断をどうするか
導入の稟議で問われるのは、結局「いくら払って、何が返ってくるのか」である。印刷業の DX では、返ってくるものが人件費の削減とは限らない点に注意が要る。
| 返ってくるもの | 金額に換算する方法 |
|---|---|
| 転記・確認にかかっていた時間 | 記録で出した時間 × 該当者の時間単価 |
| 差し戻し・刷り直しの減少 | 件数の減少 × 1 件あたりの用紙・機械時間・人件費 |
| 見積もりの回答が速くなる | 受注率の変化(すぐには出ないが、追える) |
| 赤字案件を見つけて手を打てる | 原価が見えた案件のうち、条件を見直したぶんの利益 |
| 特定の担当者しかできない状態の解消 | 金額にしにくいが、承継・採用の面で効く |
上 2 つは記録から直接出せる。この 2 つだけで投資が回収できるかを先に確認し、残りは「加えて」として書くのが、稟議としても実態としても健全である。3 番目以降を主たる根拠にすると、効果の検証ができない。
やめる判断も決めておく
導入した仕組みが定着しないことはある。半年たっても入力が埋まらない、現場が二重に運用している、といった状態である。着手時に「何がどうなっていたら見直すか」を書いておくと、撤退や仕切り直しの判断ができる。決めていないと、使われていないシステムの保守費用だけが残る。
社内でどう進めるか
技術的な検討以上に難しいのが、社内での進め方である。3 点だけ挙げておく。
- 担当を 1 人決める(兼任でよい) — 全員の仕事にすると誰の仕事でもなくなる
- 最初の対象を狭く取る — 1 つの取引先、1 つの製品群から始めて、うまくいってから広げる
- 効果を数字で共有する — 「週に何時間空いたか」を出す。感想ではなく数字にすると、次の投資の話がしやすい
ベンダーの選定より、この 3 点のほうが結果を左右する。同じシステムを入れて成果に差が出る会社の違いは、たいていここにある。
反対されたときに、何が言われているのかを聞く
新しい仕組みを入れようとすると、必ず反対が出る。ここで「抵抗勢力」と括ってしまうと、話が進まない。反対の中身は、たいてい次のどれかである。
| 言われること | 実際に心配していること | 対応 |
|---|---|---|
| 「いまのやり方で回っている」 | 移行の手間が自分に降りかかる | 移行期間の負担を具体的に示し、誰が引き受けるかを決める |
| 「うちの仕事は特殊だから」 | 例外的な案件が処理できなくなる | 例外を洗い出し、システム外で扱う運用を先に決める |
| 「入力が増えるだけ」 | 実際にそうなる可能性がある | 入力した人が楽になる設計かを見直す。正当な指摘である |
| 「前も入れたが使わなくなった」 | また同じことが起きると思っている | 前回なぜ定着しなかったかを一緒に振り返る |
3 番目は、反対ではなく設計への正当な指摘である。ここを押し切って導入すると、ほぼ確実に定着しない。反対の声は、設計の欠陥を教えてくれる情報として扱いたい。
いちばん詳しい人を巻き込む
もう 1 つ、実務的なコツがある。いまの業務にいちばん詳しい人を、最初から設計に入れる。その人は、たいてい忙しく、そして変更に最も抵抗しやすい立場にいる。
しかし、その人しか知らない例外処理や、暗黙のルールが必ずある。後から出てくると、作り直しになる。最初に時間を取ってもらうほうが、結局は早い。
空いた時間を何に使うかを、先に決める
最後に、冒頭の歴史の話に戻りたい。過去 3 度の自動化で、印刷業は作業を手放してきた。そのたびに、手放した時間を何に使ったかで、その後が分かれている。
転記と進捗確認から解放された時間を、単に人員の削減に使うのか、それとも顧客の相談に乗る時間や、提案を作る時間に使うのか。これは技術ではなく経営の選択である。そして、この選択を先に言葉にしておくかどうかで、現場の協力の得やすさがまるで変わる。
まとめ — 今週から始められる 5 つのこと
印刷会社の DX は、新しい機械を買うことではなく、情報の置き場所を 1 つに決めて、同じ作業を二度しないようにすることである。
- 2 週間の記録から始める。費用はかからず、投資の根拠にも効果測定の基準にもなる
- 二重入力の解消を最優先にする。ここが済むまで、その先の自動化は効かない
- 定型物の往復を数える。名刺 1 件のメール往復数を数えれば、Web2Print の価値が金額になる
- 決めていない業務は先に決める。ルールのない業務はシステムに載らない
- 空いた時間の使い道を、着手前に言葉にする。ここを決めていない自動化は現場の協力を得られない
そして、記録を取ることそのものが最初の一歩である。今週から始められて、投資の判断材料にも、効果の測定基準にもなる。
関連する動向は DX・ソフトウェア で追える。自社の数字の見方については 印刷業界の市場規模はなぜ調査ごとに違うのか も参照してほしい。